上記の嗜好3、すなわち編曲について、気がつくとよく使っている「技」をまとめてみました。(笑) ほかにもあるかも?!
技の名前 | 技の内容および使用例 |
メロディ混ぜ |
その名の通り、複数のメロディを混ぜて同時進行させる。響きの調和したメロディ同士であることが必要。同じ曲中で既に出てきたメロディを再登場させてさりげなく響かせることが多いかも。同時に出せる音色の数が多い、もっぱら連弾や2台で登場する技であり、ピアノソロだとなかなか出番がない。
例:ピチカート・ファイヴ「メッセージ・ソング」連弾編曲のうち、最後のサビにあたる箇所。Primoが高音で歌いあげる中、Secondoは今までに出てきたメロディを次々に連投する。(笑)
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中音域交代鳴らし | 同時に出せる音色の数に制限があるピアノソロでも、なんとか音色の数を増やしたいときの技。中音域で奏でるメロディを途切れさせず、それでいて低音域も高音域も響かせ続ける。これをやるには、低音域を出しているときは高音域と中音域を同時に、高音域を出しているときは低音域と中音域を同時に、弾く必要がある。アルベニス「トゥリアーナ」やスーザ=ホロヴィッツ「星条旗よ永遠なれ」など様々な曲で登場している。
例:大分むぎ焼酎二階堂CMの2017年版の、ホ長調に転じてから2回目の主題。中音域をとる手が左だったり右だったり変わる中で、メロディとして成り立つように繋げて鳴らすのは難しい。修行あるのみ...。
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ドヴォルジャークでの高音ヴァイオリンライクな音色 | ドヴォルジャークの交響曲8番および9番で、ここぞというときに出てくるのが、「管が野太くメロディを吠えているバックで、高音の弦が金切り声で叫ぶ」である。私ならこう編曲するかも。(笑) ピアノ連弾でも、高音域で思い切ってテクスチャを増やして強めに音を出しても、低音域でmarcatoにメロディが奏でられていればそううるさくはならないことが多い。ということで、たまに取りれている。
例:ピチカート・ファイヴ「メッセージ・ソング」連弾編曲における、最後から2番目のサビ。譜例のPrimo、前半はコラール調だが、後半はそこから更に高音の叫びに突入。
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ショパンバラード風ポリフォニー | ピアノソロ用編曲は、表現したい音に対して手の数が足りず、難儀することが多い。そのような中でもポリフォニーを出したいときがあって、近い音域で2つが枝分かれしていくように進むポリフォニーはショパンのバラード3番、寄り添うように進むポリフォニーはバラード4番を参考にしている...というよりも気がつくと参考にしている(笑)。ショパンはやはり偉大である。
例:大分むぎ焼酎二階堂CMの2003年版の冒頭。ショパンのバラード3番の冒頭に出てくるような、同じ音から枝分かれしていくようなポリフォニー。
例:大分むぎ焼酎二階堂CMの1988年版の冒頭、寄り添い合うポリフォニーを右手だけで弾く。ショパンのバラード4番にて3回目に主題が出てくるとき、同様の箇所あり。(譜例は2段楽譜としている)
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中音域の両手弾き | 中音域に厚みを持たせたいとき、右手の1,2,3指と左手の1,2,3指を主に使って、大きな跳躍を伴わずに厚みのある和音を鳴らす。両手を使うため、例えば10度や11度などオクターヴを超えた和音も作りやすくそして弾きやすくなる。
例:大分むぎ焼酎二階堂CMの2015年版の冒頭より。中音域の和音に厚みがある一方で、メロディもバスも単音のため、中音域に負けないよう、明瞭に響かせる必要がある。
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<音楽を続けたい中で思う:「うまいってなあに?!」>
演奏も編曲も、うまくなんてない中、それでも音楽を続けたいという気持ちは今もあります。
ここで、考えてみたのですが、演奏とかが「うまい」って何なのでしょうね?
うまいということに対して、下記のようなことをおっしゃるかたが、昔いらっしゃったのを覚えています:
主張A | ショパンコンクールだったっけ、ああいうので入賞とかして、CDを出しているような人でしょ。うまいかそうでないかって、結局、人から評価されているかいないか、に決まってるじゃん。特に評価を受けていないような人が、入賞してCDを出している人よりも感動的な演奏ができるとでも? そんなわけないでしょう!! もしそうだったら、コンクールは何なんだということになる。「うまい」人がもうたくさんいるんだから、音楽を真剣にやるんだったらそういう人たちに任せればいいじゃん、なんでアマチュアの人ってわざわざそんなに時間と労力をかけて演奏に取り組むんだろうねえ。結局は自己満足でしかないのにねえ。 |
主張B | 子供のころからとにかくたくさん練習してきた人でしょ。誰だって、たくさん訓練すればそりゃあ「うまく」なるさ。 |
主張C | 素早くかつ正確に間違えず指を動かせる人でしょ、楽器を「うまく」演奏するって結局は「身体の動きの最適化問題」なんだから。 |
...それなりに長く音楽を続けてきた結果、「うまい」に関する主張A,B,Cのどれにも納得できないのです。
私は、コンクール等を全く受けたことのないアマチュアのかたの演奏に、心を動かされた、涙を流したことが何回もあります。テクニック的な完成度は完璧ではなく、多少のミスやたどたどしさはあっても、大切に想って奏でている、「こう奏でたい」「こう表現したい」が伝わってくる演奏が、確かにあるのです。主張A,B,Cのどれにもあてはまりません。このような瞬間をあらためて振り返ってみると、「うまい」と感じるよりも、「想いが伝わってきた」と感じていたように思います。
ショパンコンクールに入賞するような人の演奏は、卓越した「こう奏でたい」「こう表現したい」が本人の中にあって、目覚ましい才能と努力でもって、表現したい音と実際の音とを極めて近くしているのだろうと思います。そりゃぁもう、感動を呼ぶ素晴らしい演奏です。しかしながら、それ以外の演奏は全く感動を呼ばない演奏なのでしょうか?
「こう奏でたい」「こう表現したい」が本人の中にあるが、それを実際の音として表現するだけのテクニック的な完成度が足りない場合もあります。しかし、それでも、「私の目指す音楽はこうなんです」と聴き手に音のイメージを示すこともできると信じています。テクニック的な完成度は完璧ではなく、多少のミスやたどたどしさはあっても、大切に想って奏でている、「こう奏でたい」「こう表現したい」が伝わってくる演奏は、この「聴き手に音のイメージを示す」ことができているのだろうと考えています。そして、そんな演奏もまた、感動を呼びます。少なくとも私は感動しました、何度となく。
逆に、いわゆるテクニック(速く正確に奏でる能力)がどれだけあろうとも、「こう奏でたい」「こう表現したい」が無かったり浅かったりすると、伝えるものの無いもしくは薄い演奏になってしまうとも思います。まずは「こう奏でたい」「こう表現したい」を自分の中でしっかり持たなければ、と思っています。
(なお個人的経験としては、指をどう動かすかに意識が行っていると、「こう奏でたい」「こう表現したい」が浅くなりやすい気がしています。「こう奏でたい」「こう表現したい」をしっかり持つほど、「意識のうち100%を音に注ぎ込み、指をどう動かすかは全く意識しない状態」に近づくものだと考えています。)
今の所、私が考える「うまい」の定義は、「出ている音から想いが伝わってくる」です。
私は、ディヌ・リパッティのような演奏はとてもできません。編曲も、ゴドフスキーやソラブジのようなことができるわけではありません。それでも、自分がいいと思ったことを音で表現したいという気持ちがあります。何かを「いい」「素晴らしい」と思う感性と、何かを「表現したい」「伝えたい」と思うモチベーションがある限り、大したものではないけれど、想いが少しでも伝わるように音楽を続けようと思います。こんな私でも、自分の伝えたいことによって少しは人の心を動かせることがあるかも...と信じつつ。
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